新日本プロレスの外国人の系譜は、
それだけで一つの文献ができるほど、
重厚な物語を織りなしています。
アントニオ猪木氏との異種格闘技戦を繰り広げた、
モハメッド・アリ選手を始めとする格闘家たち。
想像を絶する怪力と存在感で、
日本中のプロレスファンを興奮させてきた
スーパーヘビー級レスラー。
ハルク・ホーガン選手、スタン・ハンセン選手、
アブドーラ・ザ・ブッチャー選手、
ブルーザ・ブロディ選手、
アンドレ・ザ・ジャイアント選手、
ビッグバン・ベイダー選手・・・
数え上げればきりがない
外国人選手の系譜は今なお続いています。
その中で、現在の新日本プロレスに
最も長く在籍している選手のひとり、
名レスラーを輩出してきた
テキサス州の「最恐レスラー」
ランス・アーチャー選手です!
今回はランス・アーチャー選手について
Wiki風プロフィールで経歴を
紹介していきたいと思います!
ランス・アーチャーのWiki風プロフィール
引用:https://www.instagram.com/lance_hoyt/?hl=ja
リングネーム | ランス・アーチャー ヴァンス・アーチャー ダラス ランス・ホイット ランス・ロック |
---|---|
本名 | ランス・ホイット |
ニックネーム | テキサス・ハイタワー アメリカン・サイコ |
身長 | 203cm |
体重 | 120kg |
生年月日 | 1977年2月28日 |
年齢 | 42歳 |
出身地 | アメリカ テキサス州オースティン |
所属 | 鈴木軍 |
デビュー | 2000年7月 |
生い立ち〜高校
ランス・アーチャー選手は、
アメリカの南部地方のテキサス州の
ハーニー(ファニン)という街で生まれました。
身長が203cmとデカい!
外国人は体格のいい選手が多いですが、
やはり大きいレスラーはリングに立ったとき
存在感が際立ちますよね!
ランス・アーチャー選手の地元は
人口5000人ほどの小さな町で、
実家も代々続く薬局を営んでいたとか。
「町の科学者」と自身で語るように、
町の人々がそこに集まる、
スモールコミュニティになっていたそうです。
そんな環境で育ったランス・アーチャー選手は、
父親が教育熱心で、文武両道に育てられました。
高校生時代は、今と変わらぬ素晴らしい身体を生かして、
春は野球、秋はアメフト、冬はバスケットボールと、
様々なスポーツを経験していたそうです。
その一方で、プロレスの目覚めもこの時期でした。
90年代初頭に高校生だったランス・アーチャー選手の
目に飛び込んできたテレビは、
WWF(現WWE)とWCWの視聴率戦争である
「マンデーナイトウォー」でした。
WWFが「マンデーナイトロウ」という番組、
(今でいうRAWやSMACK DOWN!)を開始させると、
WCWは「マンデーナイトロ」という、
名前が似た番組を開始し挑発。
ハルクホーガン、ショーン・マイケルズ、nWoと
アメリカンプロレスが派手で、
勧善懲悪で分かりやすい時代。
子どもから大人まで魅了してきた時代。
特に、ランス・アーチャー選手がファンだったのは、
スティング選手だったそうです!
ランス・アーチャー選手の地元のテキサス州は、
名レスラーを多く輩出している土地です。
ショーン・マイケルズ選手、スティーブ・オースチン選手、
ジ・アンダーテイカー選手、
古くは、ザ・ファンクスや
フォン・エリックファミリーと、
日本でもおなじみの大スターが名を連ねています。
ランス・アーチャー選手もこの世界へと飛び込んでいきます。
大学〜プロレスデビュー
テキサス州のハワード・ペイン大学で、
アメリカンフットボールに
のめり込んでいたランス・アーチャー選手。
将来は、アメフトのコーチになるべく、
資格を取る勉強をしていました。
そんななか、学生時代は、その恵まれた体格を生かして、
バーの警備を担当する、
バウンサーとしてアルバイトをしていました。
そのバーの社長から、
アメリカのインディー団体
SWWFのレスリングスクールを紹介してもらい、
プロレスラーとしての第一歩を踏み出します。
そして、2000年にSWWFのリングでデビュー。
当時のリングネームは「ランス・スティール」という名前でした。
アメリカのプロレス団体は、
WWEが圧倒的なトップに君臨し、
次いでROH、最近旗揚げしたAEW、
インパクトレスリング(元TNA)
が日本でも知名度がある団体です。
日本と同じで、その他にも、
たくさんのインディー団体が存在し、
ランス・アーチャー選手も、デビュー後4年程、
インディー団体で「どさまわり」をしてきました。
プロレスだけでは食っていけなかったランス・アーチャー選手が
インディレスラーと並行してやっていたのは、
やはりバウンサー!
今の鈴木軍としての凶暴なキャラクターそのままに、
バーで暴れる客を、ちぎっては投げしていたそうです。
ランス・アーチャー選手が用心棒でいるバーなんて、
怖くて行けなさそうですね!
その後、2004年にあるファンミーティングに参加した際に、
TNAの関係者から声を掛けられ、トライアウトに参加。
そして見事合格してTNAに入団します。
ようやくメジャー級の団体に入れたものの、
当時のTNAは、芽が出そうなインディーレスラーから、
WWEを退団したビッグネームまで、様々な選手が参戦していました。
それこそ、WWEのスーパスターだった、カート・アングル選や、
ランス・アーチャー選手がファンだった、スティング選手も
TNAに参戦しており、ランス・アーチャー選手に
オイシイ役回りはなかなかこないかと思っていたそうです。
しかし、「ダラス」という
リングネームで活動しはじめると、
新人の部類だったにも関わらず、なんと大活躍!
キッド・キャッシュ選手とタッグ王者に
二度も戴冠するなどの活躍を果たしました!
当時、TNAと新日本プロレスを始めとした
日本のプロレス界は近い関係にいました。
ランス・アーチャー選手は、
新日本プロレスのプロモーターである
タイガー服部さんや、棚橋弘至選手と
この時出逢っていたそうです。
しかし、日本のプロレスをそんなに知らなかった、
ランス・アーチャー選手は、2人の事を全く知らずに、
なあなあの感じで話していたそうです。
流石は、後のアメリカン・サイコと呼ばれる男ですね!
来日〜WWE
そして、2007年には日本へ初来日します!
「MAKEHEN」という元DDTの選手だった
橋本友彦選手が主催する興業に参戦。
この時にランス・アーチャー選手にとって
運命的な出会いを果たします。
それが、鈴木みのる選手との出会いです。
新木場1stリングという、
新日本プロレスの大会としては
とても小さい会場で、
今では年始の大プロレス祭りでしか使えない会場で、
2人は敵同士として出会います。
タッグ戦で鈴木みのる選手と
相まみえたランス・アーチャー選手でしたが、
仲間が鈴木みのる選手に捕まっている時に、
カットに入ったら、物凄い殺気を漂わせながら
鈴木みのる選手が睨みつけたと、語っています。
その形相に恐れを感じたランス・アーチャー選手は
「アイム・ソーリー・・・」と思わず言ってしまったとか・・・
テキサスのバーで、酔っ払いたちを蹴散らせていた
最恐バウンサーが恐れおののくほどの睨みとは
鈴木みのる選手のもつオーラとは
いったいどのようなものなのでしょう!
その後、全日本プロレスなどに参戦した
ランス・アーチャー選手は、
これまで体験したことなかった日本のプロレスに触れて、
これまでの価値観を変えていくことになります。
アメリカへ帰る道中で、日本での刺激的なプロレスを感じた
ランス・アーチャー選手は、TNA退団を決意。
そして、WWEの傘下団体であるFCWのトライアウトを受けます。
見事、合格したランス・アーチャー選手はFCWに所属。
その後、WWEのハードコアブランドであるECWに所属します。
WWE最大の大会である、レッスルマニアに、
バトルロイヤルの出場選手として参加するなど、
徐々にWWEに馴染んできましたが、
約一年半後にWWEとの契約は終了してしまいます。
ランス・アーチャー選手は、WWEのことを振り返って
「ビッグカンパニー・・・」と
何か意味を含ませたような言い方をしています。
リングネームを「ランス」から「ヴァンス」に変更したり、
トレードマークの長い髪やヒゲも剃り落とされ、
今までのランス・アーチャー選手のイメージとは
全く違うものを要求されたと言います。
新日本プロレス〜現在
その大いなる力に、ランス・アーチャー選手は
飲み込めない何かがあったのだろうと推測できます。
短いWWEでの活動でしたが、アンダーテイカー選手や
CMパンク選手、バティスタ選手らから、
プロレスラーとしてのアドバイスをもらうなど、
貴重な経験をしたランス・アーチャー選手。
そんな彼が次に行きついたのは、
プロレス感を揺さぶられた日本でした。
結成したばかりの鈴木軍の刺客として新日本プロレスに登場した
ランス・アーチャー選手。
過去には睨みひとつで恐怖を覚えた鈴木みのる選手とタッグを組み、
参戦初年の大舞台「G1タッグリーグ(現ワールドタッグリーグ)」で、
なんと優勝を勝ち取ります!
そして、ランス・アーチャー選手のキャリアの中で、
最も輝かしいタッグチームを結成します。
それが、
デイビーボーイ・スミスJr.選手とのチーム
「K.E.S(キラーエリートスクワッド)」です!
近年の新日本のタッグチーム、
テンコジ、GBH、GOD、
ヤングバックス、ゴールデンラヴァーズなどを押さえて、
最も素晴らしいタッグチームだという声も少なくありません!
IWGPタッグ王座を3度戴冠のほか、
NWAタッグ、GHCタッグなど、
世界的に権威のあるベルトをたくさん巻いてきた2人。
多くの選手が育ち、たくさんの選手が移籍してくる、
多国籍団体になった新日本プロレス。
その中において、最古参の外国人選手の一人となった
ランス・アーチャー選手。
これから新日本プロレスに従事するならば、
若手の発掘や育成などにも力を注いでいくことでしょう。
しかし、鈴木軍の「バウンサー」であり、
新日本プロレス最古参の「最恐外国人レスラー」としての
活躍も期待したいですね!
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ランス・アーチャーの経歴まとめ
ランス・アーチャー選手は、
2019年のG1クライマックスに
裏方として尽力したといわれています。
2019年のG1クライマックスは、
初のアメリカでの開幕戦でした。
その場所は、テキサス州ダラス。
そう、ランス・アーチャー選手の故郷です。
そこで開催するにあたって、
ランス・アーチャー選手が力を注いだといわれています。
更に、プロモーターとしてではなく、
自身もエントリーされました。
初戦は、ニュージャパンカップ2019で、
ジュニアヘビー級ながら、
ヘビー級レスラー相手に躍進した
ウィル・オスプレイ選手でした。
そのニュージャパンカップではなんと、
スーパーヘビー級のランス・アーチャー選手を
担ぎ上げて、ウィル・オスプレイ選手の必殺技である
ストームブレイカーを決めました!
ランス・アーチャー選手からすると
溜まったもんじゃありません。
その借りを返すべく、そして、故郷に錦を飾るべく、
ランス・アーチャー選手は全力でウィル・オスプレイ選手に
襲い掛かりました。
その結果、ウィル・オスプレイ選手から白星を勝ち取り、
見事、故郷であるテキサスに勝利というお土産を届けました!
選手としても、プロモーターとしても一流なんですね!
そんなランス・アーチャー選手をまとめると
・文武両道の子ども時代を過ごし、アメプロ黄金期にプロレスに夢中になる。
・大学を卒業し、バーの用心棒をしながらインディー界で活躍。
・TNA、日本のインディーや全日本、WWEとステップアップし、新日本プロレスに参戦。
・新日本プロレス「最恐タッグ・KES」としてこれからも新日本プロレスに恐怖を与える。
これからもランス・アーチャー選手から目が離せませんね!